朝の光が、店の奥まで差し込んでいた。
昨日までの慌ただしさが嘘のように、
古い薬屋は静かだった。
床にはまだ修繕の名残があり、
壁際には工具箱。
棚は――まっすぐ立っている。
こつめは、その前に立ち、しばらく何もせずに眺めていた。
「……ほんまに、残ったんやな」
守れた。
でも、それだけでは足りない。
◆ 名を持たない店
山中さんの言葉が、まだ耳に残っている。
――こっからは“名前”やな。
店の名前。
看板に書かれ、
呼ばれ、
覚えられ、
人の口にのぼる言葉。
それはもう、
ただの“建物”ではなくなる、ということや。
こつめは古い机に座り、
紙とペンを出した。
何度も、何度も、書いては消す。
漢方。
守口。
おばあちゃん。
師匠。
自分。
どれも大事で、
どれも簡単に言葉にできなかった。
◆ 思い出す「ビッグ」という言葉
ふと、
小さい頃の記憶がよみがえった。
おばあちゃんに連れられて、
この店の奥で正座しながら言ったこと。
「なあ、ぼくな。
おっきい人になりたいねん」
おばあちゃんは笑って、
頭をなでてくれた。
「ええやん。
大きさはな、背ぇやないで。
人の話、ちゃんと聞ける人は、
みんな大きい人や」
その言葉が、
胸の奥で静かに鳴った。
――ビッグ、か。
◆ 守口で、ビッグになる
こつめはペンを握り直した。
東京でもない。
京都でもない。
ここは、守口。
生まれ育った町。
逃げずに戻ってきた場所。
ここで、
ちゃんと立つ。
ここで、
ちゃんと名前を名乗る。
紙の上に、
ゆっくりと文字を書いた。
お薬本舗
モリグチビッグ
しばらく、その文字を見つめる。
大げさかもしれない。
笑われるかもしれない。
でも――
胸は、不思議と静かだった。
「……これでええ」
いや、
「これが、ええ」
◆ 名を置く
こつめは立ち上がり、
棚の前に歩いた。
一番目につく場所。
まっすぐに立った棚の中央。
そこに、
当帰の瓶を置く。
その横に、
さっき書いた紙をそっと添えた。
お薬本舗 モリグチビッグ
誰に見せるでもない。
でも、確かに“名を置いた”。
こつめは深く息を吸い、
小さく、しかしはっきりと言った。
「ここはな、
守口で一番、
人の話を聞く薬屋にする」
棚は、何も言わない。
でも、倒れもしなかった。
◆ 外の光へ
店の扉を開けると、
朝の空気が流れ込んできた。
まだ看板はない。
客もいない。
それでも、
こつめは一歩、外に出た。
振り返り、
店を見上げる。
名を持った場所。
「……よっしゃ」
短く、そう言って、
扉を閉めた。
▶ 次回予告
第24話『扉の向こうの沈黙』
――おばあちゃんを探して来た人たち――


