第16話『修行の日々 ―気虚の学び―』

漢方小説

春の光が差し込む京都の町並み。

その一角にある古びた漢方薬局の引き戸を、こつめ青年は両手で押した。

「今日からよろしくお願いします」

深々と頭を下げる。

先日偶然立ち寄ったこの店に、正式に勤めることになったのだ。

奥から現れたのは、落ち着いた風貌の先生が、穏やかな眼差しでこちらを見つめる姿だった。

「まあ、すぐに大したことはできん。まずは人をよう見なさい」

静かで柔らかな声だったが、不思議と胸の奥に響いた。

こうして、こつめ青年の京都での修行の日々が始まった。

最初に相談に来たのは、四十代の女性。

椅子に腰かけるなり、「毎日疲れて疲れて、何をしても元気が出ません」とため息をついた。

声には張りがなく、話の途中で何度も息継ぎをしている。

師匠がこつめに小声で問いかける。

「どう見る?」

「……体が冷えているんでしょうか」

「違う。よく聞け。この人は冷えてるんやなくて、力そのものが不足してる

師匠は患者の手首にそっと触れ、しばらく目を閉じた。

「……脈が全体に大きいように見えるやろ。でもな、力がない。

 締まりもなく散ってしもてる。まるで風船のような脈や

こつめはごくりと唾を飲み込んだ。

「それが――気虚、ですか?」

師匠はうなずき、柔らかな声で答えた。

「そうや。これが補中益気湯を必要とする“虚の脈”や」

棚から薬草を取り出しながら、師匠は続ける。

「疲れやすい、声に力がない、食欲が落ちやすい。こういう人には“気”を補わなあかん」

袋に混ぜられたのは、黄耆・人参・白朮――。

「これは補中益気湯。元気を底から支える処方や」

こつめは分量を秤にかける役を任された。

だが手が震え、針が大きく揺れる。

「あっ……」

「こら。焦るな。薬はグラムで効くんやない。

 心を落ち着けて、人の声に合わせて秤を動かすんや」

師匠の声に背筋を正す。

呼吸を整え、慎重に針を合わせる。

ようやく一包が仕上がった。

患者は薬を受け取りながら、少し笑顔を見せた。

「なんだか、元気が出そうな気がします」

その笑顔に、こつめの胸が熱くなった。

数字でもグラフでもない――たったひとつの「声」。

それが薬の力を照らしている。

夜、店を閉めたあと。

師匠が静かに語った。

「こつめ君。気虚の患者には“補う”ことが大事や。

 でもな、薬草だけやない。患者さんが“生きたい”と思える気持ちを支えるのも、漢方家の役目や」

その言葉が、深く胸に刻まれた。

[つづく]

▶︎ 第17話『窓辺の京都から 陰虚の学び―』

(潤いを失った患者との出会い)