第18話『ひとりで立つ日 ―陽虚の学び―』

漢方小説

朝の京都。

冬の名残を残す冷たい風が、商店街ののれんを揺らしていた。

「今日は私、町内の会合で出るからな」

師匠は白衣の袖を整えながら言った。

「こつめ君、今日は一日、店を任せる」

「えっ……ぼ、僕ひとりで?」

「大丈夫や。薬は棚にある。

 あとは“人”を見て決めることや」

穏やかな眼差しとともに微笑むと、師匠は静かに店を出ていった。


午前中は常連の患者が数人。

こつめは慎重に調剤し、何とか無事に対応していた。

だが昼過ぎ、一人の老婦人が店に入ってきた。

背を少し丸め、両手をこすり合わせながら言う。

「先生、体が冷えて仕方ないんです。

 靴下を何枚重ねても、指先の感覚がなくて……」

こつめは脈を取りながら考えた。

脈は細くて弱く、押すとすぐに消えてしまう。

冷えが芯まで入り込んでいる――陽虚の脈だった。

「体を温めるお薬を考えますね」

そう言いながら棚を見上げた。

目に入ったのは、真武湯と人参湯。

“冷えには真武湯や”と頭の中で繰り返すが、

女性の声が、ふと耳に残った。

「お風呂に入ると少しマシになるんです。でもすぐ冷えるんです」

――それは、単なる冷えではない。

体を温めても、その“火”を保てない。

陽気そのものが弱っている。

こつめは一包の箱を取り出した。

「……人参湯にしましょう」


数日後、その女性がまた来た。

「先生、あの薬を飲んでから、

 朝、起きたときの冷えが少しマシになったんです」

こつめの胸に、静かな達成感が広がった。

“温める”とは、外から火を足すことではない。

中の火を燃やす力――つまり“気”を取り戻すこと。


ある日、師匠が帳簿を見ながら言った。

「こつめ君、留守のときどうやった?」

「はい……。少し怖かったです。でも、

 患者さんが“楽になった”と笑ってくれました」

師匠は穏やかにうなずいた。

「陽虚の人は、体の火が弱るだけやない。

 心の火も小さくなっとる。

 ――火を足すよりも、燃やす力を取り戻さなあかん。

 それを見極めるのが、漢方家や」

外は、春を告げる雨が静かに降り始めていた。

こつめは灯りの落ちた店内で、

調剤台の上に置かれた小さな湯のみを手に取る。

白い湯気がゆっくりと立ちのぼり、

彼の心の奥に、小さな火をともした。

[つづく]

▶︎ 第19話『黒豹の眼差し ―瘀血の学び―』

(心の奥に傷を抱えた女性、柊さんとの出会い)