第15話『転職の決意』

漢方小説

「こつめ君、今月の数字、まだ目標に届いてないぞ」

営業所の会議室。

グラフと数字を並べた資料を前に、上司の声が響いた。

「抗生物質は横ばいや。もっと処方を取れるように働きかけんと」

言葉は理解できても、胸の奥は冷えていくばかりだった。

患者の声は聞こえない。

どれだけ“喜んでもらえた”としても、それは評価されない。

その日の帰り道。

ふと、仕事で立ち寄った町の商店街に、古びた看板が目に入った。

「漢方薬 ○○堂」

小さな引き戸を開けると、薬草の香りがふわりと漂った。

棚には茶色い瓶や和紙に包まれた薬草。

奥のカウンターには、白衣姿の店主がゆったりと腰を下ろしていた。

「いらっしゃい。今日はどうされました?」

ちょうど中年の女性客が座っていて、体調の相談をしている最中だった。

店主はメモを取りながら、頷き、時には笑い、時には静かに耳を傾けていた。

「最近、疲れやすくて…」

「そうですか。それなら、冷えもあるみたいですし――陽虚気味やな」

店主はそう言って、いくつかの薬草を取り出した。

「体を温めて、気を補う漢方を合わせましょう」

30分ほど、丁寧に話を聴いたあとで調合を始める。

その横顔は、どこか懐かしい。

――おばあちゃんが棚を開けながら語ってくれた姿と重なった。

女性客が帰ったあと、店主がこちらを見た。

「……君は薬屋さんか?」

「ええ、まあ。今は製薬会社で営業をしています」

「なるほど」店主は顎に手を当てて微笑んだ。

「それにしては、さっきから目が真剣やったな」

ぼくは思わず聞いてしまった。

「……先生、何を処方されたんですか?」

店主は少し驚いたように眉を上げた。

「ほう、君は漢方に詳しいのか?」

「いえ、詳しいってほどではありません。

 ただ、祖母がよく“人は体質によって薬が違うんや”って話してまして」

店主は静かにうなずいた。

「なるほど。ええ話やな。やっぱり漢方は“人そのもの”を診て処方するもんや」

しばらく沈黙が流れ、やがて店主がゆっくりと言った。

「こつめ君。薬ってのは数字のためにあるんやない。

 数字は会社に報告するためのもんや。

けど薬は、患者さんの“ありがとう”に応えるためにあるんや。

 人の声にこそ効くんやで」

その言葉が、胸の奥を射抜いた。

まさに、自分が探していた答えだった。

店を出ると、夜風が頬を打った。

でも心は、不思議と軽かった。

数字のグラフではなく、人の声の中で働きたい――。

その思いが、初めて迷いなく形を取った。

「……転職しよう」

小さな声が、確かに自分の中から聞こえた。

[つづく]

▶︎ 第16話『修行の日々』

(こつめ青年、漢方薬店で新たな一歩を踏み出す)