第19話『黒豹の眼差し ―瘀血の学び―』

漢方小説

京都の午後。

雨上がりの光が、薬棚の瓶に柔らかく反射していた。

こつめは調剤台を拭きながら、

湯気のように漂う生薬の香りに、師匠の声を思い出していた。

――人をよう見なさい。体だけやのうて、心もや。


引き戸の鈴が、かすかに鳴った。

「……こんにちは」

静かな声。

顔を上げると、黒髪を短くまとめた女性が立っていた。

生成りのワンピースに、薄い灰色のカーディガン。

柔らかいのに、どこか張りつめた空気を纏っている。

「最近、体が重くて……胸がつかえるような感じがして、夜も眠れないんです。

 月のものも乱れていて、時々、息苦しくなることもあります」


師匠はうなずき、静かに言った。

「では、舌を見せてもらえますか」

午後の日差しが差し込む。

彼女がそっと舌を出すと、

淡い光の中に、わずかに紫を帯びた赤が浮かび上がった。

その表面には、細かな暗い点がいくつも散っている。

師匠の目が細められる。

「……血の流れが滞っとるな。

 体の奥で、澱(おり)のように血が沈んどる。

 無理に流すんやなく、自分で動き出せるように手を貸すんや」

そう言って師匠は、棚から小瓶を取り出した。


ラベルには、細い文字で「田七人参」。

粉末を掌にすくい、光にかざす。

淡い茶色が、雨上がりの陽にきらりと光った。

「これは、血の道を開く薬や。

 滞りを少しずつ、やわらかくしていく」

こつめは、その説明を聞きながら、

女性――柊の横顔を見つめていた。

透けるような肌の奥に、言葉にならない疲れが見えた。

まるで、長いあいだ光に触れていなかった花のように。


会計を済ませたあと、柊は紙袋を抱きしめるようにして言った。

「……いっそ、楽になれたらいいのに」

師匠は何も言わず、ただその背を見送った。

こつめは胸の奥で、何かが静かに軋むのを感じた。

店内には、田七人参の香りと、

雨の名残を含んだ風が混ざっていた。

瓶に映る光がゆらぎ、

柊の姿が、静かに溶けていくように見えた。

こつめは目を閉じた。

その瞼の裏に――

黒豹のように深く、美しい光を宿した瞳が、

いつまでも静かに揺れていた。

[つづく]

▶︎ 第20話『別れの処方箋 ―師弟の約束―』

(突然の事故、そして託されたもの)