第22話『崩れかけた棚と、ひとつの生薬』

漢方小説

最終決定日の朝。

こつめは冷たい洗面台の前で、自分の顔を見つめた。

眠れなかった目の下に、濃いクマが浮かんでいる。

今日、すべてが決まる。

店に入ると、崩れかけた薬棚が静かに傾いていた。

そっと手を添えると、カタリと揺れる。

「……落ちるなよ。もう少しだけ頑張ってくれ」

引き出しの奥には、

昨日見つけた当帰の瓶がひとつ。

こつめは胸の前でそっと抱え込んだ。

「おばあちゃん……僕、どうしたらええんやろ」

その時、スマホが震えた。

画面には「師匠」の文字。

◆ 師匠の電話

「こつめ君。今日が期限なんやな」

こつめは、なんとか集めた500万円、

足りない500万円の現実を吐き出した。

「……僕一人じゃ、どうにもなりません」

師匠は静かに言った。

「京都に“山中”さんいう大工がおる。

 わしと長い付き合いや。

 今回の再開発の会社の“建築部門”にも、

 山中さんの古い知り合いがおるらしい」

こつめは思わず息を呑んだ。

「もう逃げへんと決めたあんたのためなら、

 動いてくれる人が、おるもんや」

胸の奥で、

消えかけていた灯がふっと揺れた。

◆ 山中さん、現れる

午前11時すぎ。

白い軽トラックが店の前に止まった。

「山中です。師匠さんから聞いとるで」

作業着の男は店内をひと通り見て、

崩れた棚の前でしゃがんだ。

「……ええ棚や。まだ立て直せる」

そして、こつめの手に持たれた当帰の瓶を見て言った。

「大事なもんなんやな。

 こういう“想いのある店”はな、壊したらあかん」

胸が熱くなった。

山中さんはスマホを取り出し、

低い声でどこかへ電話をかけた。

「佐野か? 山中や。

 守口の案件、分割で扱ったれや。

 昔の借り、覚えとるやろ?」

数分のやり取りの後、

山中さんは受話器を切り、こつめに向き直った。

「こつめ君。あとは向こうから連絡くるで」

◆ 電話が鳴く

夕方。

店の中がオレンジ色に染まり始めた頃、

スマホが震えた。

こつめは震える指で出た。

『本社より指示がありました。

 残り500万円、5年分割で認めます。

 ご家族を保証人に——

 そして“店を続けること”が条件です』

こつめは、その場にへたり込んだ。

「……やらせてください。

 絶対に、守ります」

電話を切ると、

山中さんがゆっくり近づいてきた。

「よかったな、こつめ君」

こつめは涙を拭きながら、

何度も頷いた。

◆ 灯は、消えなかった

山中さんは崩れた棚を見て、

にやりと笑った。

「ほな、こいつも直したろ。

 棚が真っ直ぐ立ったらな、

 あんたの人生も真っ直ぐ立つ」

トン、トン、と木槌の音が響く。

こつめは、当帰の瓶をそっと棚の上に置いた。

揺れかけていた心の灯は、

今は少しだけ強く、

確かに燃えている。

山中さんは棚の最終確認をし、

工具を片付けながらぽつりと言った。

「……こつめ君。

 こっからは“名前”やな」

「……名前?」

「せっかく守った店や。

 どんな旗(はた)を上げるかで、

 これからの全部が変わるんやで」

こつめは棚の上の当帰瓶を見つめる。

夕暮れの光に照らされて、

瓶が小さく光った。

店の名前。

これから自分が生きていく場所の、最初の一文字。

胸の奥で、灯がまたひとつ弾けた。

「……考えます。

 この店にふさわしい名前を」

山中さんは満足そうにうなずいた。

「ビッグになったこつめ君を、楽しみにしとるわ」

[つづく]

▶ 第23話『瓦礫の中の希望 ―店名を決める日―』