最終決定日の朝。
こつめは冷たい洗面台の前で、自分の顔を見つめた。
眠れなかった目の下に、濃いクマが浮かんでいる。
今日、すべてが決まる。
店に入ると、崩れかけた薬棚が静かに傾いていた。
そっと手を添えると、カタリと揺れる。
「……落ちるなよ。もう少しだけ頑張ってくれ」
引き出しの奥には、
昨日見つけた当帰の瓶がひとつ。
こつめは胸の前でそっと抱え込んだ。
「おばあちゃん……僕、どうしたらええんやろ」
その時、スマホが震えた。
画面には「師匠」の文字。
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◆ 師匠の電話
「こつめ君。今日が期限なんやな」
こつめは、なんとか集めた500万円、
足りない500万円の現実を吐き出した。
「……僕一人じゃ、どうにもなりません」
師匠は静かに言った。
「京都に“山中”さんいう大工がおる。
わしと長い付き合いや。
今回の再開発の会社の“建築部門”にも、
山中さんの古い知り合いがおるらしい」
こつめは思わず息を呑んだ。
「もう逃げへんと決めたあんたのためなら、
動いてくれる人が、おるもんや」
胸の奥で、
消えかけていた灯がふっと揺れた。
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◆ 山中さん、現れる
午前11時すぎ。
白い軽トラックが店の前に止まった。
「山中です。師匠さんから聞いとるで」
作業着の男は店内をひと通り見て、
崩れた棚の前でしゃがんだ。
「……ええ棚や。まだ立て直せる」
そして、こつめの手に持たれた当帰の瓶を見て言った。
「大事なもんなんやな。
こういう“想いのある店”はな、壊したらあかん」
胸が熱くなった。
山中さんはスマホを取り出し、
低い声でどこかへ電話をかけた。
「佐野か? 山中や。
守口の案件、分割で扱ったれや。
昔の借り、覚えとるやろ?」
数分のやり取りの後、
山中さんは受話器を切り、こつめに向き直った。
「こつめ君。あとは向こうから連絡くるで」
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◆ 電話が鳴く
夕方。
店の中がオレンジ色に染まり始めた頃、
スマホが震えた。
こつめは震える指で出た。
『本社より指示がありました。
残り500万円、5年分割で認めます。
ご家族を保証人に——
そして“店を続けること”が条件です』
こつめは、その場にへたり込んだ。
「……やらせてください。
絶対に、守ります」
電話を切ると、
山中さんがゆっくり近づいてきた。
「よかったな、こつめ君」
こつめは涙を拭きながら、
何度も頷いた。
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◆ 灯は、消えなかった
山中さんは崩れた棚を見て、
にやりと笑った。
「ほな、こいつも直したろ。
棚が真っ直ぐ立ったらな、
あんたの人生も真っ直ぐ立つ」
トン、トン、と木槌の音が響く。
こつめは、当帰の瓶をそっと棚の上に置いた。
揺れかけていた心の灯は、
今は少しだけ強く、
確かに燃えている。
山中さんは棚の最終確認をし、
工具を片付けながらぽつりと言った。
「……こつめ君。
こっからは“名前”やな」
「……名前?」
「せっかく守った店や。
どんな旗(はた)を上げるかで、
これからの全部が変わるんやで」
こつめは棚の上の当帰瓶を見つめる。
夕暮れの光に照らされて、
瓶が小さく光った。
店の名前。
これから自分が生きていく場所の、最初の一文字。
胸の奥で、灯がまたひとつ弾けた。
「……考えます。
この店にふさわしい名前を」
山中さんは満足そうにうなずいた。
「ビッグになったこつめ君を、楽しみにしとるわ」
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[つづく]
▶ 第23話『瓦礫の中の希望 ―店名を決める日―』

