第26話『はじめての処方』

漢方小説

――正解のない机の前で――

その人が帰ったあと、

店の奥は、しんと静まり返った。

椅子は、まだ温もりを残している。

こつめは、

しばらくその椅子を見つめてから、

ゆっくり机に向かった。

正解のない時間

引き出しを開ける。

ノートを出す。

ペンを握る。

頭の中には、

さっきの言葉が何度も浮かんでいた。

「夜、寝られへん」

「食べる気、出えへん」

「しんどいけど、どこが悪いか分からん」

――おばあちゃん先生やったら、どうしたやろ。

その考えが浮かんだ瞬間、

こつめは小さく首を振った。

「……ちゃう」

今は、

自分が考えなあかん。

知識は、ある。けれど

気虚。

血虚。

少し、気の巡りも悪い。

頭では、

整理できる。

でも、

それを“処方”に落とすとなると、

手が止まった。

「これでええんか……?」

紙の上に書いた文字を、

何度も消す。

自信がない。

けれど、

逃げるわけにもいかない。

あの言葉が残る

ふと、

あのお客さんの声がよみがえった。

『無理に寝ようとせんでええ、言われた』

『食べなあかん、とは言われへんかった』

――症状より、

――暮らしを見てた。

こつめは、

深く息を吸った。

「……まずは、整えるか」

強くする前に、

戻す。

急がせない。

追い立てない。

瓶を前にして

棚から、

いくつかの生薬を机に並べる。

当帰。

黄耆。

少し、胃腸を助けるもの。

指で触れながら、

考える。

「今日は、これくらいでええ」

控えめな処方。

派手さはない。

でも、

今の自分には、これが精一杯やった。

書いた名前

処方箋の端に、

自分の名前を書く。

こつめ

その二文字を見た瞬間、

胸が、少しだけ熱くなった。

「……これが、俺の処方か」

正しいかどうかは、

まだ分からない。

でも、

考えたのは自分や。

夜の店で

店の灯りを落とす前、

こつめはもう一度、机を振り返った。

ノート。

処方箋。

並んだ生薬。

完成ではない。

でも、

始まりではある。

「……明日、どうなるかやな」

そう言って、

扉を閉めた。

外は、

もう暗くなっていた。

[つづく]

▶ 第27話

――処方の“その後”――

(効いたのか、効かなかったのか。

答えが返ってくる日)